【解説】福沢諭吉『脱亜論』(まんがで読破)|結論|感想|読み方

アジア地図

まさに

富国強兵への道

黒船が来航してから日本は大きく変わっていく。 文明国として世界と対等に渡り合っていくために必要なものと不必要なものとは——!?

よーいち
文明は理由なき侵略。 今も続くアジア諸国との課題がよく分かりました。

僕は【まんがで読破】の大ファンで、全139冊読んでいます。

今回はその中から『脱亜論』を簡単3分でご紹介します。

結論

この本が教えてくれるのは、日本人の進むべき道です。

 

感想

まったく知りませんでした。

脱亜の亜はアジアのことのようです。

”問題作”といわれるくらいですから、よっぽど真偽のつけがたい内容なのでしょう。

 

簡単あらすじ

我は心に於て 亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。

1884(明治18)年3月 時事新報 寄稿者説より——

時事新報とは、福沢諭吉と慶應義塾卒業生により発刊された新聞である。

のちに『脱亜論』と呼ばれ、昨今も注目されるこの社説はどのようにして誕生したのか——

世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東にざんし、至るところ、草も木もこの風になびかざるはなし。

[私訳:日本をアジアの進出の経由地点にしようとして西欧文明が次第に入り込んできたが、日本はこの時流を受け入れるしかなかった。]

1853年 黒船到来——

ペリー黒船来航

「開国シテクダサイ チョンマゲドモ!」

ペリー率いるアメリカの要求に幕府は決断をせまられていた。


黒船来航の19年前、福沢諭吉は大坂に誕生した。

それから2年度、父が早世し、中津(=大分県)に生活の拠点を移すこととなる。

15歳の時、兄〈三之助さんのすけ〉の勧めで塾へ通うことになった。当時の士族は7歳の頃には塾へ通うのが一般的であったので、諭吉は年下と一緒に学ぶのが恥ずかしかった。

しかし、諭吉の学力は先生を打ち負かすほどの実力となり、中津一と噂されるまでに成長した。

 

西欧の風

そしてまた黒船がやってきた。

ペリー 激怒

「サッサト開国シロヨ チョンマゲドモ!」

けだし西洋の人物、古今に大に異なるにあらずといえども、その挙動の古に遅鈍ちどんにして今に活発なるは、ただ交通の利器を利用して勢に乗ずるがゆえのみ。

[私訳:確かに西洋人は、これまでと大きな違いはないと言うが、古い考えをのろまから活発にする理由はただ交通の道具として利用するためだ。]

幕府はアメリカと日米和親条約を締結ていけつ。200年以上続いた鎖国体制は終了した。

諭吉20歳の時、蘭学の勉強のため、長崎へ行くことになり、西洋砲術家〈山本物次郎〉のもとで蘭学修行が始まる。

蘭学本

アルファベットを3日で覚え、着実に知識を蓄積していく諭吉だったが、同じく修行する上士じょうし(=家格の高い武士)の策略によって追い出されてしまう。

諭吉は兄〈三之助〉が働く大阪へ立ち寄る。すると、大阪に蘭学塾・適塾があることを教えてもらい、そこに入塾することにした。

そこは完全な実力主義。身分制度に苦しむことはないと知り勉学に励むが、その一年後に兄〈三之助〉が亡くなり、再び中津へ戻ることに。

兄の死により家長となった諭吉は城に出仕し、勤めることになった。が、勉強したい気持ちが強すぎて仕事に身が入らない。もう一度勉学に復帰するべく母を説得して、大阪の適塾に戻った。

故に方今ほうこん東洋に国するものの為にはかるに、この文明東漸とうぜんの勢に激してこれを防ぎおわるべきの覚悟あれば則ち可なりといえども、いやしくも世界中の現状を視察して事実に不可ならんを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈ふちんし、ともに文明の波を掲げて共に文明の苦楽をともにするのほかあるべからざるなり。

[私訳:だから、今のアジアの国々を考えれば、西欧文明が移る勢いの激しさに対して、死ぬ覚悟があれば防げると言うが、見苦しくも世界の現状を見てきてそれは不可能だと知らない者は、世の中が移り変わっても共に文明という海に浮き沈み、波を立ててたりして、苦楽をともにする以外にない。]

諭吉はこれまで以上に勉学に励み、入門から約2年で名高き適塾の塾頭にまでのぼりつめる。

その甲斐あって、江戸で蘭学塾の教師をしてもらいたいと頼まれた。

 

いざ西欧へ

1858年 幕府はアメリカと日米修好通商条約を締結する。

日米修好通商条約

「サンキュー チョンマゲドモ!」

その後、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとも同様の条約を締結。開港や関税の協定、領事裁判権の認定など、日本にとって厳しい条約だった。

世間では「天皇の許可なく条約を結ぶ都は言語道断!」と、幕府への反発から尊王攘夷そんのうじょうい論が強まっていく。

尊王攘夷とは、君主を尊び外敵を斥けようとする思想である。

Wikipediaより引用

文明はなお麻疹はしかの流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。

[私訳:文明は依然として麻疹はしか(感染症)の流行のようである。現在の東京の麻疹は長崎から次第に東に移ってゆき、まるで春の暖かさと共にに広がる人のようだ。]

「公儀に逆らう輩は徹底的に処分を下せ!」と、大老〈井伊直弼いいなおすけ〉は反幕府の人々を次々と弾圧した。

すると、幕府と攘夷派の対立はより激しさを増していく。

諭吉は門下生に言う。「攘夷派はなぜ西欧人を敵視するのか? それは西洋を知らないからだ!」

ただにこれを防がざるのみならず、つとめてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむるは智者の事なるべし。

[私訳:ただ単に西欧文化の浸入を防ぐばかりではなく、力を尽くしてそれを広くうながし、日本国民として西欧文化の性質を受け入れるのは賢い人だ]

ある日、諭吉は習得したオランダ語を試すべく西洋人があふれる横浜に行くがまったく通じない。オランダ語のわかる店員の筆談によると”オランダ語は時代遅れ。今の主流は英語です”とのこと。

諭吉はガックリとしたが、それから昼は蘭学を教え、夜は英語を独学する生活を始めた。

英蘭辞書

すると思わぬ形で朗報が飛び込んできた。近々、幕府がアメリカ使節団(派遣)を送るらしい。

諭吉は軍艦奉公の〈木村摂津守せっつのかみ〉に直談判じかだんぱんし、その船に雑用員としての搭乗を取り付けた。

——1860年1月 咸臨丸、江戸より出航

悪天候が続いたが37日目、咸臨丸はアメリカ大陸に上陸。この数週間の体験がのちの諭吉の思想に大きな影響を与えることになる。

文明開化 アメリカの風景

 

読み方

黒船来航 → 開国 → 明治維新 → 文明開化 

近代化が迫られた激動の時代。強い国にならなければ西欧の植民地になってしまう。

諭吉は日本の将来を懸念し、これからの日本はどう世界と渡り合っていけばいいのかを時事新報の中で訴えます。『脱亜論』が注目を集めるのは諭吉の死後、1960年以降のこと。

2023年現在も日本とアジア諸国における課題は数多い……。

 

最後に

まずは漫画で読むことをオススメしていますが、書籍で読むのもいいと思います。

書籍は、図書館や中古本など、たくさんあると思います。

ぜひ探してみてください。

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よーいち

高校中退→ニート→定時制高校卒業→フリーター→就職→うつ→休職→復職|うつになったのを機に読書にハマり、3000冊以上の本を読みまくる。40代が元気になる情報を発信しています。好きな漫画は『キングダム』です。^ ^

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