まさに
アクシデントの時代
政治の混乱、疫病蔓延、自然災害。そして飢饉。 平安時代から鎌倉時代に変わるその時、日本の社会はどんなものだったのか——。
僕が大好きな漫画『方丈記』を簡単3分でご紹介します。
結論
この本が教えてくれるのは、無常観です。
感想
『方丈記』との出会い
小・中学校の頃に聞いたような気がしたくらいでした。
「水木しげる先生が漫画化したのだったら読んでみるか」と手に取りました。
簡単あらすじ
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
鴨長明は1155年、京の賀茂御祖神社の正禰宜惣官〈長継〉の次男として生まれた。
禰宜……神社で、宮司・権宮司を補佐する職。
コトバンクより引用
長明は孤独でいることが好きな子供であった。
11歳の時、延暦寺の衆徒(=僧兵)が清水寺に火を放ち、これを焼き払った。
御所(天皇・大臣の住まい)では、〈崇徳院〉が天皇となった。
〈白河法皇〉は息子の〈鳥羽天皇〉を天皇としたが、その鳥羽天皇が存命にもかかわらずその皇位をその子〈崇徳〉に譲らせた。(※注釈……この本にはこう書かれているが、白河法皇の息子で次の天皇に即位するのは堀河天皇で、堀河天皇の息子が鳥羽天皇です)
端的に言うと、父〈鳥羽上皇〉と子〈崇徳天皇〉は仲が悪かった。
白河法皇の崩御後、鳥羽上皇は崇徳天皇を排除しようと息子の〈近衛〉を天皇の座につけるが17歳という若さで亡くなってしまう。天皇には近衛の兄〈後白河〉が立った。(血縁関係で言うと、近衛・後白河は崇徳の弟)
鳥羽上皇が亡くなった後、ついに崇徳上皇と後白河天皇は戦うことになり、崇徳上皇が敗北。
讃岐(=香川県)に流されてしまいます。
上皇……譲位した天皇の尊称。
コトバンクより引用
法皇……出家した上皇
コトバンクより引用
崇徳院の怨み
崇徳院は讃岐国で写経に専念していた。
戦死者の供養と恭順の意を籠めて書いた写経は京の都に送られたが、少納言〈信西〉はそれを不吉な物として送り返してしまった。
それを知った崇徳院はそこまで疎んじるのかと憤り、自分の舌をかみ切ってその血で呪いの言葉を書き、経文と共に海中に沈め、その後はひたすら呪詛し憤死した。その姿はまさに魔王のそれであった。
崇徳院の死から4年後のこと……讃岐国——
〈西行法師〉は崇徳院の慰霊のため、御陵(=天皇のお墓)のある白峰にやってきた。
そして、経を唱えていると……怨霊となった崇徳院が現れ、遺恨を残すと火の塊になって消えた。
この後も都では不穏な出来事が様々な形で起こるのである。
厄災
1177年4月28日、この日の夜は烈しく風が吹いていた。
午後8時頃、火は都の東南から出火して西北へと燃え広がった。はては朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などにまで広がる。
この”安元の大火”で平安京の3分の1が焼失した。
1180年4月29日、この日は午後になって天候が激変した。
突然、雹が降ってきたかと思うと雷が落ち、すさまじい辻風(=竜巻)が発生した。
辻風は都の家のほとんどを破壊し、多くの負傷者を出した。
1180年水無月(=6月)、平清盛による摂津国福原(=兵庫県神戸)に遷都。
源氏との戦いに備えて都を遷した。
しかし、却って動乱が増すこととなり、わずか半年で都を再び京都に戻すことになった。
鴨長明の生い立ち
鴨長明18歳の時、父〈長継〉は亡くなる。
父に代わって禰宜の職を継いだのは、またいとこの〈祐季〉で、祐季の子〈祐兼〉がその後任となった。
長明は自分が禰宜の職に就けると思っていただろう。その後、鬱々とした日々を送ることになった。
長明の人生は出世とは無縁だったようだが、和歌や琵琶が得意で、生涯を通してその修練に励んだ。
その和歌の腕前は『新古今和歌集』に入選されるほどだった。
読み方
1人でいるのが好きな男に共感。
アクシデントの多かった時代に鴨長明は時代に抗わんと奮起するのではなく、諦めて別の道で生を充実させます。
読む人によっては”負け犬”に見えるかもしれませんが、隠者には隠者なりの人生観を持ち、その誇りを一心に貫いているように見えました。
こじんまりした4畳半ほどの庵に住み、季節の移り変わりを味わい、趣味の和歌や琵琶を楽しむ——「なんて理想的な生活だろう」と憧れます。
巻末に原文が載っています。
最後に
水木しげる作品は代表作『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』他、歴史もの、戦争もの、たくさんあります。
ぜひ探してみてください。
価格:627円 |