【父の死】【1】人生観が変わった日。〜自死〜

 

 

その年のいつ頃だったか、父が死んだ。

その時の季節さえも覚えてないということは、おそらく僕自身にとって相応のショックな出来事だったに違いない。

父の死因は、うまく言えないが自殺に属すると思われる。父は40歳頃から透析とうせきを受けていた。透析とは人工透析のことで、腎臓を悪くすると体内の血液を浄化することができなくなるため、体内の血液を機械で総入れ替えするという方法だった。人工透析には6時間ほどかかるらしく、その最中はとても苦しくて苦しくてたまらないらしい。よく父が言っていた。

結論から言っておくと、父の死によって、僕は生きるということを初めて考えるきっかけとなった。今のままではいけないと思わせてくれた。そう、人は必ず死ぬのだから。

ある日、母から電話があった。

父の体調が悪いから帰ってきてほしいと言うのだ。母の声は震えていた。

僕は次の休みの日、実家へ戻った。

父は床に伏して青白い顔をしていた。そして、力のないかすれた声で「お……お、よういち」と言った。しかし、僕は返事をせずに部屋を後にした。

元々、父とは仲が悪かったのだ。

昔の父は、世間で言うところの亭主関白で、何か機嫌が悪くなるとすぐに殴ってきた。何度も何度も殴られ蹴られ、僕は泣き喚いて、わけもわからずに「ごめんなさい、ごめんなさい」と言うとやっとおさまるのだ。そんなことがひと月に何度もあった。僕には弟が一人いたが、弟はちょっと姑息な性分だったので、父の前では従順な演技をして、父の暴力から逃れていた。無論、僕が父から殴られていても、母も弟も助けようとはしなかったし、文字通り、見猿聞か猿言わ猿だった。

母から病状を聞くと、今までは透析でなんとか命を取り留めてきたが、70歳を超えて、体力的にもしんどくなってきたらしい。今はなんとか持ち堪えてはいるが、本人は精神的にもまいっていて、この前「死にたい」と漏らしたと言う。

「また何かあったら電話してくれ」僕はそう言って家を出た。

正直、勝手に死ねばいいと思っていた。薄情な息子だと思う人もいるだろうが、これが嘘偽りのない本心だ。

そして、数ヶ月経った頃、母から電話があった。

「お父ちゃんな、昨日、救急車で運んだんや。今朝、家に戻ってきたけど、とりあえず、来てよ」

僕は再び実家へ戻った。

父はぐっすり寝ていた。

母が言うには、父は突然「俺は死ぬ」と断言し、食事を断ち、透析を拒否し始めた。それから2週間ほど経って体調を崩し、父が「救急車は呼ぶな」と言ったが、母は救急車を呼び、病院へ搬送された。しかし、透析を受けている病院で父は「俺はもう透析をしない。死なせてくれ」と言い切った。そこで母は涙ながらに、父が自分のために死にたいのなら私(母)のために生きてはくれないか、と懇願して、なんとか透析を受け入れたということだった。

「お父ちゃんな、私のためにもう一度頑張ってみるって言ってくれたけど……でも、またいつ死ぬって言い出すかも知れん」母は不安な表情で呟いた。

「うん……」僕はよく分からない返事をしていた。

死にたいのなら勝手に死なせてやればいいと思った。子供の頃、何度、父が死ぬことを願っていたか、数え切れない。願ったり叶ったりだ。それに、もし、自分が同じ立場だったらどうするだろう。死にたいのに引き止められて、悶々とした気持ちは消化することができるのだろうか。

本心から死を願う人なんていないだろう。自殺した人は、いろんなことがあって、解決する方法が見つからなかったり、耐え切れなくなって、どうしようもなくなって、挙げ句の果てに、生きる苦しみよりも死がラクだと思うようになってしまうだけだ。

安楽死の是非について、世界では未だに議論が交わされているが、死を安らぎとして見るのか、苦しみとして捉えるのか、結論は出ていない。当の本人しか分からないのだろうが、母のように伴侶がいると、簡単に決断できるものではない。

「まあ、でも、もう一回頑張るって言ったんだから様子を見るしかないで。もし、また死ぬと言っても、それはもう仕方ないわ。本人は苦しくてたまらんって言ってるんやろ」

「……そうやけど……。なんかね、病院の先生から聞いたんやけど、体がしんどいのはもちろんそうやねんけど、透析してる時に便が出てしまうらしいねん。それが辛いって言うねん」

「そら便くらい出るやろ。人間やねんから」

「まあ、そう言うたらそうやねんけど、その……便が水みたいやから……」

「ああ、薬のせいでやろ? 下剤飲んだら誰でもそうなる。そんなことは、医療に携わってなくても知ってることや」

「そうらしいねん。水みたいになって、それで服が汚れてしまうから、看護師さんたちが替えてくれるんやけど、それが恥ずかしいし、みっともないし、自分でも情けなく思うし、看護師さんにも悪いなぁって……」

「ああ、なるほど。でも、看護師さんたちはそういう患者さんを相手にする仕事なんだから慣れてるやろうから、そんなに遠慮しなくてもいいなじゃないの?」

「……やっぱりそういうの関係なく、辛いみたいよ」

「そうか……。だったら、しょうがないな」

「そんなん言わんといてよ」

その後、僕は母の話を1時間ほど聞かされた。今まで一人で父の世話をしていたのだから、積もる話もあったのだろう。結局、その日は家に帰った。

3日後、またまた母から連絡が入った。

秀穂ひでほ叔父さんが来てるから会ってきて」とのこと。

秀穂叔父さんは母の弟で、中学校の校長を務めた人だった。正直言って、教師の説教は聞きたくない。僕は断ったが、母はわざわざ遠くから来てくれたのだから会ってほしい。秀穂叔父さんも僕に会いたいと言っていると言うのだから仕様がない。

その日の夕食がまだだったので、どこかの店で落ち合おうということになった。

近くのハンバーグ店で食事をしながら叔父さんは僕に、父と話をするように言ってきた。僕は、やっぱりこういうことか、とため息をついた。もうあと何日生きているか分からないのだから、今のうちに悔いのないように話したらどうだと言うのだ。

余計なお世話だ。僕は内心そう思った。

しかし、拒否するとまた説得が始まりそうだと思ったので「うん、そうやな」と返事しておいた。

叔父さんは帰る間際まで、絶対に父と話をするようにと、何度も言っていた。

それから2週間ほど経って……母が「お父さん、今度は本気みたい」と連絡してきた。何回説得しても、俺は死ぬの一点張りで、全然取り合ってくれないと言う。

またもや僕は実家に戻った。

父は俯きながらか細い声で言った。「……もうなぁ、辛ぁて辛ぁて仕方ないんや。俺が死んだらお母ちゃんのこと頼んどくわ……」

「そう……」僕の口からは、息を吐くのと一緒に小さな声が出た。

母は涙ながらに「よういちからも何か言ってよ。お父ちゃん、ほんまに死ぬんやで」と訴えてきた。

「……ふう」

僕はため息をひとつして部屋を出て母に言った。大の大人が死を決意したのだから死なせてやってはどうか、と。このまま生きていても苦しむことの方が多いのだろう。だとしたら、父は何のために生きているのか。母のために生きようとはしたみたいだが、その目的よりも苦しみが勝ってしまったのだとしたら……。

その日、母がどうしてもと言うので実家に泊まった。

次の日、僕は仕事のため、家を出て行った。母は僕を見送る時、「次に連絡する時は、もう最後やと思ってや」と、表情は今朝から暗いままだった。だが、覚悟を決めたようだ。私(母)を一人残して行くことへの恨みのような、イライラした怒りがその低い声から感じられた。

そして2週間が経った。

深夜0時過ぎ、母から「お父ちゃん、もう死にそうやから、早く来て」と連絡が入り、僕は急いで実家へ向かった。

家に着くと、部屋には高齢の医者が一人いて、死亡確認をしているところだった。父の顔は血の気がなく、黄土色になって干からびていた。

母は泣きながら「お父ちゃんな、死ぬ1時間前くらいに、急に立ち上がって洗面所に行ってな、歯を磨きだしたのよ。多分、死ぬ前に綺麗な状態にしておこうと思ったんやろうね……」

その後、僕は葬儀屋さんと共に父をストレッチャーに乗せて…………その後のことは詳しく覚えていない。お通夜も葬儀のことも、あまり覚えていない。おそらく、ぼーっとしていたのだと思う。その時、僕が強く思っていたことは、死ぬ前に会話をしなかったことに後悔はない、ということだけだった。

その日から、僕はなぜか力が抜けたようになってしまった。

 

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よーいち

高校中退→ニート→定時制高校卒業→フリーター→就職→うつ→休職→復職|うつになったのを機に読書にハマり、3000冊以上の本を読みまくる。40代が元気になる情報を発信しています。好きな漫画は『キングダム』です。^ ^

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