朝の9時、病院の総合受付へ行くと、女性の職員に「こことここを記入できたら持ってきてください」と書類を渡された。
住所、氏名、年齢を事務的に記入欄に埋めていく。面倒くさいなぁ、と思いながら書き終え、受付に提出すると、身体測定と検尿。他に病気がないかも診察したような気がする。これだけで午前中が潰れた。
肝心の心療内科の診察は午後からになると言われたので、病院内の食堂へ行くことにした。病院の敷地はかなり大きく、県内でも一二を争う大きさだろう。某有名コーヒショップも病院内にあって、サンドイッチの写真がとても美味しそうだったのを覚えている。でも、僕はそこでランチにしようとは思わなかった。それは、店内に仕切りがないので、ほぼオープンテラス状態だったからだった。店の前を常に何十人という人が通っている。人目が気になってしまう。
僕は2階の定食屋に入った。何の変哲もないお店ではあったが、場所が奥の方に設置されていたので、ゆっくり食べれそうだなと思った。
何を食べたのかは覚えていない。余談になるが、僕はカツ丼やカレーライスが好きなので、そのどちらかを多分食べたのだろう。
30分ぐらいゆっくり時間をかけてランチを食べ終えたが、それでも診察までまだ30分ほど時間があったので、スマホをいじりながら時間を潰したあと、心療内科へ向かった。
心療内科の待合室はとても広かった。診察室が6〜7部屋あっただろうか。その各入り口の前に長い椅子が3席。今は4〜5人しかいないが、きっと午前中は人が多いんだろうな、と予想できた。午前中に総合受付に行く途中、心療内科の前を通った時、十人ほどの人が入っているのを僕は見て覚えていた。
「この地域だけでも、こんなに心が病んでいる人がいるのか……」ハァとため息が出た。
ピンポーン、と案内音が鳴ると名前を呼ばれた。いよいよだ。
白い扉をスライドさせて中には入ると、20代半ば見える若い男の医師がいた。自然体といえばいいのか、とてもゆったりと構えていて、この診察室に溶け込んでいるような存在感を感じさせた。
「お座りください」と、か細い声で言われたので椅子に座った。さあ、何が始まるのだろう。じっと若い医師の顔を見据えた。
若い医師は資料を見ながら、僕の職業と現在休業している経緯を述べ、それを僕と確認し始めた。それがひと通り終わると、「どうですか? 最近は……」と尋ねてきた。
どうですか?と言われても、何から話せばいいのか、僕には分からなかったので、1分ほど考えて、今の生活はこんな感じだと正直に話してみた。しかし、若い医師は「うん、うん」と頷くだけで、特に意見を言うこともなかった。僕が話し終わっても、まだ何も言わない。まだ何か話さないといけないのか、と思ったが、とりあえず思ったこと感じたことも話してみた。そして「……最近はこんな感じです」と、話が終わりであるニュアンスを付け加えた。
すると、若い医師は「……そうですか」と言いながらカルテを見て僕の顔を見て「もし、この先、心に抱えているものが取れたら、どうしたいですか?」と聞いてきた。
僕は「そりゃ、仕事に復帰して、健康に生活できるようになりたいです」と答えた。
「……そうですか。では、いつ頃、復帰したいと考えていますか?」
僕は少し考えた。今すぐ治るに越したことはないが、そんな急激に治っても、また変なことになってしまわないだろうか。どうせ休職したのだから、しっかり治して、確実に復帰できると自信を持ちたい。
「……会社の就業規則では、休職は3ヶ月までとなっているので、それまでには復帰しようと考えています」
若い医師は「……3ヶ月というと……」と言いながら、机の上に置いてある小さなカレンダーで確認した。
「分かりました。復帰の時期は診察しながらゆっくり決めていきましょう」
僕は不安になってきた。3ヶ月なんてあっという間かもしれないが、そのブランクを埋めることができるだろうか。多分できると思うが、他の人から後ろ指を刺されたり、変な噂を流されたりしないだろか。いろんなことが頭を巡ってきた。
「だ、大丈夫でしょうか? そんなにゆっくりしていて……」
「私としては、この際、ゆっくり休養をとった方がいいと思います。休みたくないですか?」
「はい。できるだけ早く復帰したいです。会社に迷惑をかけたくありません」
「なるほど……。でも、すぐに戻っても、あなた自身が変わっていなければ、また同じことになるかもしれない。それこそ、本当に会社に迷惑をかけてしまうことになるという考え方はできませんか?」
確かにそうだ! 今無理をしても結局はバテてしまうだろう。それでは何のために心療内科に来たのか分からない。せっかく上司に紹介してもらったのだから、しっかり治そう!
「……そうですね。……そうします。ちゃんと治そうと思います」
「では、次の診察日を決めますがいいですか?」
「はい」
次の診察は2週間後に決まった。
帰りの車内で、次の2週間後まで何をして過ごそうかと考えていた。あの若い医師に聞いてみると、「自分がしたいと思うことであれば何でもいいですが、苦しくなってくるようであれば、やらなくてはいけないと思わずに、すぐにやめてもいいと思います」と言っていた。つまり、自分の心に素直に従えばいいのだ。そうか、僕は、今まで自分の心に従わずに無理させていたのだ。だから、心がすり減ってバテてしまったのだ。
僕は基本はインドア派なのだが、ずっと室内にいても陰気になってしまうような気がしたので、3日に一度くらいは外出しようと思った。また山へ行ってみよう。その道中で美味しいものを食べてもいいだろう。外で食べるご飯は最高にうまい。
「それにしても、心療内科の医師は全然違うんだな」
というのも、実は、休職する数ヶ月前に、自分で調べて別の心療内科に通っていた。と言っても2回だけだったが。
その時の医師は50歳くらいの男性で、口調も横柄で強気な発言が多かった。たとえば、「仕事を辞めるか続けるかはあなたが決めることだ」とか、「薬はどうしますか? 出してほしいなら出しますが?」とか。それが自分と合わないと思って通うのをやめた。
それに薬も合わなかった。気持ちが落ち込んでいるのに、力づくでテンションを上げさせられているような感覚。でも、下がっているよりはマシだから服用していたが、薬の効果がきれてくると「あ、ヤバい、ヤバい」と焦るしかなかった。却って心労が増えた気がしていた。(※あくまで個人的な感想です)
今回の医師は若かったが、聞き役に徹してくれたので、少しでも思ったことを話せて良かったのかもしれない。もうずっと治らないのではないかと思う時もあったが、ちょっと希望を持ってみよう。とにかく、無理はしないこと。自分が喜ぶことから始めてみよう。
何もはっきりとはしていないが、暗闇の中に線香のようなほのかな光を発見した気分だった。
数日後、僕はまた山にドライブに出かけた。
前回と同じ場所へ行き、河原で2〜3時間ぼーっと過ごした。川の水は冷たくて、空気は最高に美味しく、何と言っても流水の音が僕の心を癒してくれた。
実家では漫画を読んだり、映画を観て過ごした。
若い頃から漫画は好きで読んでいたが、30歳を過ぎる頃から読む漫画が減ってきて、今読んでいるのは長期連載している1つか2つぐらいだった。実家には、僕が20代に読んでいた本しかなかった。だから案の定、3日もすればすぐに飽きてしまった。
映画は食事の時に流し見しているだけだ。気になる俳優が出てきたらちょっと観てみようか、という程度だった。そもそも、長時間の視聴は僕にとって骨折り作業だった。
こんな感じなので、僕は新しい漫画が欲しくなった。
次の日、書店へ行ってみた。
新刊コーナーには知らない漫画ばかりが積まれていた。
そこに僕が知っている漫画は1つしかなかった。時代が変わってしまったから、もう僕が読める漫画はないんだな。映画にもなった超人気漫画がたくさん並べられているけど、最初から読もうという気にはなれない。
とりあえず、書店内をぐるっと一周してみることにした。
小説、洋書、自己啓発本、学習本、古典、歴史、心理学、哲学、パソコン関連、児童書など、じっくりと時間をかけてそれぞれのコーナーを見て回った。しかし、どれから手をつけていいのかさえ分からない。どうしたものか……。
ふと、昔の人はどうしていたのだろう、という考えが頭をよぎった。
昔の人だって人間だ。今の自分と同じように心が病んでしまったり、人生に行き詰まった人もいたはずだ。だったら、どうやってそれを乗り越えてきたのだろう。いや、乗り越えられなかった人もいるだろう。その人たちは何を考え、どう行動していたのだろう。
「知りたい!」
急に昔の人の本を読みたくなってきて、小説コーナーに足が向いた。が、やはり活字だけの本は苦手なままだった。2〜3ページ読むだけで頭がクラクラしてくる。ダメだ。やめておこう。僕はまた漫画コーナーへ戻ってみた。そして、今度は漫画コーナーを隅から隅まで見て回った。やはり今すぐ読みたいと思う漫画はない。
今度は、普段は絶対に見ない漫画コーナー奥へ行ってみることにした。そこにはプレミアがつきそうな古い漫画や学習漫画などが陳列されていた。すると、ひとつの本に目が止まった。
『罪と罰』ドフトエフスキー (まんがで読破)
確か、100年か200年くらい前のロシアの小説家の作品だ。小説だったら絶対に読もうとはしなかったけど、漫画だったら読めるかもしれない。読んでみたい。
僕は衝動的にその本を手に取ってレジで会計を済ませた。
未だかつてないほどにワクワクしていた。内容の知らない本を衝動買いするのはいつぶりだろう。なかったことかもしれない。
最初に本の感想を言っておくと、ほとんど理解できなかった。なんだか分からないが、主人公は罪を犯して、罰に疲れたのち、一人の女性に救われた。僕は何度も読み返してみた。でも、よく分からなかった。主人公の考えや行動が理解できなかった。ましてや作者の意図などまるっきり分からなかった。しかし、読んだという達成感と充実感があって、僕の足をたびたび書店へと向かわせた。
夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、古事記、ニーチェ、資本論……僕はこれまでにないくらいに夢中になって読み耽った。
自分と同じように悩み苦しんでいる人がいることを知ることは、僕にとって救いであり慰めになった。理解者ができたような気がして嬉しかった。
もっと読んで、いろんなことを知ろう。そうだ。僕は社会や歴史をほとんど知らない。知ろうとしなかった。だから、挫折してしまったのだろう。昔の人が今の人以上にいろんなことに悩んで乗り越えてきたことが分かって気持ちがラクになった。教訓になることも多かった。
「これからは、何でも気になった本は手当たり次第に読むぞ」
いつ終わるか分からない、読書の日々が始まった。
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【父の死】【4】人生観が変わった日。〜休職〜
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