【父の死】【4】人生観が変わった日。〜休職〜

 

 

僕はその日から心療内科の若い医師に言われた通り、自分がやりたいと思うことを素直にやってみることにした。

週に一度は山へ行って河原でおにぎりを食べたり、大きな公園を散歩したりして気分転換をした。家では、テレビを観たいと思ったら観て、観たくなければ観ない。読書も読みたいときだけ読むようにした。ずっとしていなかったテレビゲームもやってみた。あえてレトロゲームを遊んだ。そうやって1週間、2週間が過ぎて行った。

すると、今まで自分がやりたくないことも我慢していたことに気がついた。仕事なんだから、やりたいことばかりじゃないのは当たり前だが、少なからずストレスに感じていたことは確かだった。若い医師は、見失っていていた自分の心を見つけることから始めさせようとしたのだ。

2週間後の受診では、若い医師は前回と同じように、「この2週間の間、何をしてましたか?」と尋ねてはじっと僕の話に耳を傾けていた。時折、相槌を打つだけで一度も意見や感想を言うことはなく、ただただ聞き役に徹していた。

僕は素直に感じたことをそのまま話して診察は終わった。最後に次の受診日を決める。ああ、これで今日の診察は終わりか……と思った。ちょっと物足りない気がしていた。言いたいことは言ったが、貴重なこの時間をこんな一方的なおしゃべりで本当に良いのだろうか、と思っていると若い医師は言った。

「……あ、何か言い残したことはありますか?」

「い、いえ、特にはないです……が、あの、薬とかは、無くて大丈夫なんでしょうか?」

「あ〜、薬はまあ、基本的には無いですね。……無い方がいいと私は思いましたので、このまま続けてみて、もし必要になったらそのときにでも……」

「ああ……そうなんですね。なるほど」

「前に薬を飲んだことがあると言ってましたが、そのときはどうでしたか?」

「正直、自分には合っていなかった気がしています」

「うん。……じゃあ、このまま薬は無しにしておきましょう」

「そう……ですね。はい」

医師という職業の人は皆こんな感じなのだろうか。若いのにすごく落ち着いていて、いい意味でドライな感じでカラッとしている。暗くもなく明るくもなく、淡々と記録をつけている。まあなんというか、安心して通院できそうな印象を持った。この病院に来てよかった、と思えた。

診察が終わると、僕は、せっかく外出したので本屋に行ってみることにした。

診察の後に本屋に行くのが楽しみになっていた。自分がまだ知らない世界を知るのはとても爽快だった。さっきまで落ち込んでいたのに、読み終わった後は笑顔に変わっている。たった1冊の本で自分の考え方が180°変わってしまうから楽しくて仕方がない。今まで読書をほとんどしてこなかったから尚更そう思うのかもしれない。

読書をするようになってから思ったことは、本は対話と同じだということ。僕は今まで他人の話を聞かないで生きてきたのだ。そりゃつまずくに決まっている。自分の中で、小さな考えの中でもがいていたのかと思うと恥ずかしいを通り越して笑ってしまう。井の中の蛙だ。そんな簡単なことにさえ気が付かないなんて、小さな世界で威張っている人を今でも見るくらいだから、人生で誰もが陥りやすい失策しっさくなのだろう。

その日は、漫画と6冊と小説を1冊を買った。

車ではもっぱらクラシック音楽を聴くようになった。特にピアノ曲(ピアノソナタ)が好きでよく聴いた。

モーツァルトは気分が軽くなったし、ショパンは自分と向き合えた。リストやベートーベンは人間の力強さを思い出せた。ドビュッシーは人間の自由を実感することができた。

クラシック音楽のいいところは歌詞がないことだが、一番の長所は、テンポが早いことだ。

POPや演歌などの歌と違って、短い間隔の中に複数の音が次から次へと奏でられる。超絶技巧と呼ばれる、難易度が高い曲もある。それを聴き取るのことに意識を持っていかれるので、雑念や邪念を簡単に払えてしまう。クラシック音楽を聴いている時だけは現実世界のことを考えられなくなるのだ。

クラシック音楽を初めて聴くならベートーベンがいい。ベートーベンは『運命』『第九』が有名だが、本来はピアニストなのでピアノ曲が素晴らしい。三大ピアノソナタというのがあって、とても男らしくて骨太なパワフルなのだ。聴いた後は必ず元気になっている。

クラシック音楽に包まれた車はそのあとハンバーガーショップへ向かった。そしてハンバーガーとフライドポテトを買い、そのまま公園へ向かった。

『塩は天然の抗うつ剤』とどこかで聞いたことがあるが、本当にそうだと思う。フライドポテトを食べていると顔がニヤけてくる。スナック菓子やラーメンなども食べると、「なんか楽しくなってきたかも。今から出かけようかな」と、活動的な気持ちになってくる。だから僕は自分自身元気がないと思う日は塩味のものを食べるようにしている。

公園の駐車場に着くと、ハンバーガーをペロッと平らげて、そのあと、買った本を3冊数ページだけパラパラと流し読みをした。そしてスマホにイヤホンをつけて、ラジオをつけて車を降りる。そして公園を散歩する。

ある男女のお笑いコンビのラジオ番組がお気に入りだった。

なぜ散歩しながらラジオを聴くかというと、外の情報を入れないようにするためだった。これを読んでいる人は、僕が気にしすぎだと思うかも知れないが、その時の僕はすれ違う人が僕のことを話しているかもと想像してしまっていたのだ。一瞬目が合ったりするだけで、「あっ、今目が合った」とか思ってしまうのだ。今思えば、目が合うということは僕も相手を見ているからなのだが、その時はそんなことすらわかっていない。しかも、イヤホンをつけているので誰かから話しかけられる心配もない。そんなことで、僕はラジオ番組を聴きながらだと気をラクにして散歩できた。

それにしても、ラジオ番組は精神的にいいのかも知れない。

何も考えずに2人の会話を聴いているだけでいいし、変な話だが、どんなふうに喋ればいいのかが分かる。思ったことを言わずに我慢する癖がついていたので、会話のお手本にもなった。

それに最近のお笑いは昔に比べて誰かが傷つくような内容は少ないから安心して聴ける。昔は「アホ」だの「バカ」だの「ハゲ」「デブ」「ブス」だのと罵って叩くお笑いスタイルが多かった。その当時はそれを見て大笑いしていたが、今は他人がそれを言われていると思うだけで心苦しい。時代が変わってよかった。

芝生の道を歩きながら、向こう側に見える池の方に行ってみたり、まだ行ったことがない奥の方に行ってみたりした。散歩は1時間に及んだ。

家に帰る前にスーパーマーケットに寄って、お菓子やお酒なんかを買った。

食べるのは決まってスナック菓子が多かったが、駄菓子もたまに買っていた。駄菓子を食べていると懐かしい気持ちになってホッとする。お酒は今だから分かるが、ほどほどがいい。僕はついつい深酒してしまう癖があったので、寝るまで飲んでしまうことが多かった。そうなると、読書ができなくなってしまう。体にも良くない。お酒はやめた方がいい。やめれなくても減らすべきだ。最近はノンアルコールも美味しい。

僕の場合、「もうどうにでもなれ!」という思いもあったので、お酒に歯止めが効かなかった。吐いたりすることはなかったが、頭はグラグラするわ、ガンガン痛いわで、気分は最悪。しかもその最悪な気分は半日ぐらい続く。無理にでも水を飲まなければ治らない。

お酒を浴びるほど飲まないとやってられないと思うときは誰にでもあると思うが、3日に1回でも、7日に1回でも、少し控える日をつくってもらえたら僕は嬉しい。

そんな感じで、僕は自分の気持ちを大事にすることを毎日積み重ねた。

時折、仕事のことを脳裏によぎることもあったが、極力考えないように心がけた。今考えたところでどうせ答えは出ないだろうと思った。答えが出ないことを考えても仕方がない。復職する何日か前になったら考えればいいのだ。それにせっかくの休みだ。今は純粋に休みを楽しむべきだろう。心を休めるために休んでいるのだから。

2週間おきだった心療内科への受診は、1ヶ月半経った頃には3週間おきに変わった。

若い医師が言うには「2週間おきに来ていただくよりも3週間おきにして、自分自身の気持ちと向き合う時間をつくってください」とのことだった。

僕は復職を具体的に考えることにした。

復職しても大丈夫だろうか。

3ヶ月のブランクは、最初は大変だろうが頑張ればなんとかなるだろう。

人間関係はどうだろう。変な噂が立っていないだろうか。変な目で見られないだろうか。変に気を使われると嫌だけど、まったく気を使われないのはしんどいな。

正直、今の僕の心の状態は100%中の40%くらいだった。

完全には治っていなかった。まだ頭は正常ではない。復職してもいいかな、という気になれただけだ。いわば、ギリギリ最低ラインに立っているだけなのだ。また心が折れてしまうかもしれない。不安は大きかった。

しかし、こうも思った。

いつまでもこのままではいられない。完全に100%になるまで休むなど、そんな悠長なことを考えているのではないが、ここからは実践で回復していけばいいのではないか。そんな気もしてきたので、何度も脳内でシュミレーションをして復職を決意した。

そして、ドキドキしながら職場の上司とSさんに電話して、自分の意思を伝えた。

復職する日を決め、話がひと段落ついたとき、Sさんは僕の部署異動を提案してくれた。僕は即座に「はい。ありがとうございます」と返事した。

考えてみれば、前の部署が嫌ではないが、変な目で見られたりする心配があったので、部署移動することになって、ガチガチだった肩の力がスッと抜けた。

心療内科の受診も最後を迎えた。若い医師と充分に話し合って感謝の意を伝えた。本当に良い医師だった。人にもよるだろうが、僕に必要なのはアドバイスではなく、自分を取り戻すことだったことを教えてくれた。ここまで思ったことを他人に喋った記憶はない。これからもないのかもしれない。心療内科は僕にとって秘密の隠れ家のようだった。

妻子のいる家にも戻ることにした。

ここに書き尽くせないほどのことがいろいろあったが、それはまたのちの話としようと思う。

そして、いよいよ復職の日がやってきた。

 

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よーいち

高校中退→ニート→定時制高校卒業→フリーター→就職→うつ→休職→復職|うつになったのを機に読書にハマり、3000冊以上の本を読みまくる。40代が元気になる情報を発信しています。好きな漫画は『キングダム』です。^ ^

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