復職は思いの外、順調だった。
初日から三日間はまだ頭がぼーっとしていた。しかし、考えるより体を動かすことが要求されるので、結果的にネガティブな考えを持つ時間はかなり減っていた。それでも気持ちが前向きになりづらい日は「今日一日頑張ろう」という気持ちで作業をこなした。
同僚たちはというと、最初こそ戸惑いはあったようだが、日が経つにつれて何事もなかったかのように接してくれてるようになった。ありがたい限りだ。
復職して一ヶ月が経った頃、僕の心は50%ほどになった。
二ヶ月で55%、三ヶ月で60%という具合に、少しずつ回復していった。不思議なもので、心がどの程度回復していくか手に取るように把握できた。
一年だった頃には80%くらいに回復していた。ほぼ治っているといえるが、頭のどこかになんらかの違和感は残っていた。から元気みたいなものだ。
その時を振り返ってみて、鬱の時の自分は、生きる気力がなくなりかけていた。いつ消えてしまうのか分からない線香花火ような小さな光だった。毎日を不安に過ごしつつも、自分から消えることは出来なかった。
そんなギリギリの精神状態だったから、複雑なことを考えることができなくなっていた。まず広い視野で物事を考えることができない。だから、何かを決断することに自信が持てなかった
その時の僕の口癖は「分からん」だった。
食事の時でさえ、「夜食と洋食、どっちにする?」という日常会話でさえ答えることができなかった。
なぜそうなるかと言うと、相手に合わせようという心理が働いてしまうからなのである。
相手の心の裏の裏を読もうとして頭がパンクする。そ
れに僕自身が良いと思っても他の人は嫌かもしれない。そう思うと正解は出てこない。一か八かで答えることを考えるのも心が苦しい。だったら何も答えなければいいじゃないかという気持ちになってくる。
「そんなことも答えられないのか?」と間違えて失敗するのが嫌で仕方なかった。
仮に反論されてもそれは冗談半分だったり、コミュニケーションのひとつとして受け取れば良いのだが、その時の僕の頭の中は「どっち? どっち?」と、切迫観念にとらわれた状態なのだ。
そのせいもあって、復職後は『心理学』や『哲学』の本をよく読んだ。
心理学はアドラー、フロイト、ユング。哲学はデカルト、ニーチェ、ショーペンハウアーなど他多数。
人間ってなんだ?という答えが知りたかった。
どうして人は人を傷つけるのだろう。
どうして言葉によって傷つくのだろう。
どうすればそれを解決することができるのだろう。
ひと昔前までは、精神疾患は男性より女性の方が多いと言われていたことを思い出していた。
それは社会のあり方が原因だった可能性が大いにあると思う。
男尊女卑の社会で女性が生きづらさを感じていたのは当然だ。その反面、男性は抑圧されても仕事や家庭で発散できたのでストレスは小さかったのだろうと僕は想像する。
つまり、どんな環境でも希望が持てる人は活気があるが、そうでない人は心が病んでいく。
そんなことを考える日々の中で、僕の心の中にも、昔の男性的な思考があったことにようやく気がついた。
男性は家族を養うために働き、女性は家庭を支えるもの。
女性は男性の立場を立てて、絶対に逆らってはならないとか。
子供の頃、お婆ちゃんに言われた言葉を今も鮮明に覚えている。
「男は何もせんでええ。料理は女がするもんだけぇ、居間で座って待ってんなさい」
台所に来た僕にお婆ちゃんが言った言葉だ。
僕はその意味がよく分からなかった。でも、手伝ったら余計に怒られそうな気がしたので「うん、わかった」と言って踵を返した。
男には男の役割、女には女の役割があるんだ、と、そう思うことにした。
しかし、大人になるにつれてそういうジェンダーの考え方はどんどん変わっていく。男女の格差は埋まっていく。それが良いことは分かっているが、子どもの時に植え付けられた習慣や感覚はすぐに順応できなかった。今までのやり方が全く通用になくなっているーーそんな感じだった。
現に職場はやや女性が多い。職場の男性は女性に遠慮にながら仕事をしているように見える。それがなんとも窮屈そうに思えて同情してしまう。
いつからこんなふうになってしまったのか。そう悲観していたが、自分がどういう生き方をするかは自分が決めるのだから、時代や環境のせいにしては解決しない。また心が病んで鬱へ逆戻りするだけだ。
自分が変わればすべて解決するのだ。なんて単純なんだろう。
僕に何が欠けていて何が足りないのか、まだまだ気づいてない部分も多い。だったら、読みたいと思った本を全部読んでみよう。そんな気持ちになって、さらに手当たり次第に本を買っては読んで読んで読みまくった。
そして1年が経ち、2年が経ち、僕の心はやっと90%以上に回復した。本のおかげだ。
哲学や心理学によって人間、世界、神の輪郭が捉えられ、頭の中が正確に整理されていた。あの鬱の時には想像もできなかったことだった。
哲学や心理学はいわば、悩みのプロフェッショナルだ。
人間ってなんだ?
世界ってなんだ?
神ってなんだ?
という生きることを追及して、その謎を解き明かそうとした偉人たちの理論なのだから、僕にとってその言葉は重かった。
僕は数々の理論を吸収して実践で活用することを何度も繰り返した。すると不思議なことが起こった。自分の視野が下がり始めたのだ。無限に続く合わせ鏡のように、自分の位置が後ろに下がっていくのです。(ドロステ効果というそうです)
昨日の自分を今日の自分が見ていて、今日の自分を明日の自分が見ている。
たとえば、うまくいかなかったことのどこがダメだったかが分かってくると、周りの人たちが過去の自分と同じようなアクシデントに遭っていると、ここをこうするとうまくいくという解決方法が頭に浮かんでくる。それはまるで、過去の自分を見ているような錯覚を覚える。
物事と人がどういう状況なのかを考えている自分を後ろの自分が見ている。落ち着いた気持ちで冷静に判断する力が身についていた。
だからというわけではないと思うが、僕を何年も前から信頼してくれている同僚がいた。困ったことがあるといつも僕に相談してくれていた。(他の人にも相談していたのかもしれませんが、それは特に問題ないと思っています)
その人を仮にAさんと呼ぶことにします。
Aさんは僕と非常に似た感覚の持ち主で、目に見える物以上に情報をキャッチする感覚を持っていました。最近ではHSPと呼ばれていますが、実は僕はそれでした。なので子供の頃から親から「変な子ね」と敬遠されていました。(Aさんは自分がHSPだという自覚はないようです)
そんなAさんが「他人からなかなか理解されにくいことがある」と僕に相談してきてくれるので、同じ感覚の僕は自分のことのようにとても共感できたのです。だからAさんの思うこと考えることがよく理解できたし、僕の言葉はAさんには受け入れやすかったのかもしれません。
そうしてAさんの悩み事を自分のことのように解決?していきながら、自分の考えと現実とを横に並べて照合して確証を持つことができた。何より、もっと自信をつけることができた。救われていたのはむしろ僕の方だった。
人の悩みは本当に尽きないな、と痛感する。
若い時は自分の意識に従って、したいようにしてきたが、30歳を超えてくるとそれだけでは乗り越えられないことが増えてくる。その時に、乗り越えられるだけの知識があれば問題はないが、ない場合は挫折することになる。僕の場合がそれだ。
僕は変にプライドが高く、お調子者でもあった。しかも、怠け者でもあった。努力はしないくせに他人には偉そうで、褒められるとすぐ調子に乗る。なんて嫌な奴だ。
そんな性格だから、精神的なダメージは底知れないものがあった。もうダメだと思った。
ある人はそんな僕を「心の弱い奴だ」と言った。
僕はそう言われて何も言い返せなかった。自分の考えが信じられなくなっているのだから言い返せるはずはないし、相手の言葉を「そうか、僕は心が弱い奴だったのか」と飲み込むことしかできなかった。
でも、心が弱いってなんだ?と、動きの鈍い頭で考えた。じゃあ強い心もあるってことなのか……。
何を言われても何をされても堂々としている人は心が強い人なのか。ただ顔や態度に表出しにくい性格なのではないか。
後で分かったことだが、この”心が弱い”という言葉は、本当に無責任な言葉だと思う。
結局は、問題を解決する知恵があるかないかなのだ。
問題を人脈で解決する人もいるが、それでは問題が起こるたびに周りを巻き込む人に成り下がってしまう。
「鬱になる人は真面目な人だ」とよく聞くが、それって、問題や課題から目を背けない人なのではないか? 戦った結果、負けてしまっただけなのではないだろうか。
それって心が強い人だよ。
心からそう思う。
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